ハンガーゼロ アフリカ」とは

田村 治郎

田村 治郎

啓発事業部巡回スタッフとして活動地の報告や学校等での講演会を通して、飢餓や貧困に苦しむ現地の方々と日本国内の方々との橋渡しの働きに従事しています。


田村 治郎のブログ一覧

2022年11月11日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記 _8回目(最終回)

 翌日ホテルを出発しようとチェックアウトの手続きをしていると、昨夜とは打って変わってマリアさんがさっぱりした顔で「昨日はありがとうございました Дякую за вчора」と挨拶してくださった。子どもたちもぐずることなく、一晩ゆっくり休んで落ち着かれたようです。
 
さて、一路ワルシャワ駅に向かってアウトバーンを疾走。何度かトイレ休憩や昼食を挟んでのドライブです。マリアさんの2人の子どもは、兄ドミニク君2歳、妹サラちゃん1歳。とてもお茶目で可愛い2人。王さんにもよく懐いていて、休憩したパーキングに広がる芝生を、まるで親子のように走り回っている姿は、旅の疲れを癒してくれる1コマです。
 さあ、そこから一走り6時間ほどで到着です。名残惜しいのですが、ここでマリアさん親子とはお別れです。彼女たちはここからさらに列車に乗って親戚を頼って西部の町まで行かれるとのこと。旅路の安全とご主人の守りを祈りお別れしました。

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「ドミニク君、サラちゃん」


 私たちが宿泊したWarsaw Westin Hotelは、国からの支援をいただいて客室の半分をウクライナ難民の方々の避難所として解放し、残りで通常営業しています。このホテルの駐車場にあるウクライナ人教会で「ぜひコンサートをしてくれ!」と、牧師に懇願され、この時すでに森さんも私もコロナの症状が出始めており、発熱と喉の痛みを感じていましたが、「このために来たんだから!」との森さんの情熱にしばし熱も痛みも忘れてコンサート開催です。岡さんはこの時も音響を担当してくれましたが、まだ熱は下がり切っておらず、いくつか記憶が飛んでるようですが、そこはプロ。しっかり仕事はやり切ってくださいました。ミニコンサートとなりましたが皆さん喜んでくださったことは言うまでもありません。コンサートの中で王さんが思わず「ゆりさんがCovit19になりました」と言ってしまいましたが、コンサート後には誰一人躊躇することなく、感謝感謝のハグの嵐でした。

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「ワルシャワ・ウクライナ人教会でのコンサート」

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「ワルシャワ・ウクライナ人教会の皆さんと」


 岡さんの症状も昨日と比べて少し回復したようで、オヤジ特有の「病院は行かない」と駄々をこねていたのですが、森さんの「病院に行きなさい!」との母の一声で、無理から引きずるように保険契約指定の病院へ診察してもらうことに。診察手続きのため病院の受付で保険契約証を見せても、「そんな保険会社は知らない」とあっさり言い放たれて、キャッシュレスとはなりませんでしたが、そこは旅につきもののトラブル、受け入れ乗り切るしかありません。診察してもらうと脱水症状で、3本ほどとっておきの電解質輸液を打ち込んでいただき、2時間ほど休んでホテルに戻りました。ここまでが当初予定していた1週間の弾丸ツアーです。この後の顛末は、1回目~3回目に報告した通りです。

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「岡さん、点滴の図」


 このブログを書いている今は10月の中旬です。帰国して1ヶ月以上が経ちましたがウクライナの戦況は泥沼化の様相を呈しています。ロシア軍に占領された東部のいくつかの地域はウクライナが奪還したものの、ロシア軍による2日間に及ぶミサイル攻撃で、首都キーウをはじめ、ウクライナ全土の主要都市の火力発電所などライフラインとなるインフラが破壊され、多くの死傷者を出し、戦下の人々はいまだ停電の中厳しい冬を迎えようとしています。核使用も徐々に現実味を帯びてきている状況です。どうぞ、ウクライナに平和が戻りますように。被災し避難しておられる方々が1日でも早く普通の日常を送れますように、祈りの輪を広げてください。私たちハンガーゼロも、さらに支援の働きを継続していきます。皆さんの愛の心を届ける手足として私たちを用い続けてください。
ウクライナの平和を祈りつつ。Миру Україні !

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「左から、筆者、森親善大使、岡さん」

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2022年11月04日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記 _7回目

 翌日もコンサートの予定があったのですが、なんと岡さんが夜中に高熱を発症。症状からどうもコロナでは?熱の上がりようからこれはすぐにポーランドに戻って、ワルシャワの病院に行った方が良いと判断して、大変心苦しいのですがこの後のコンサートをキャンセルさせてもらいました。さて、一路ポーランドへと言いたいところでしたが、やはりウクライナ現地でどうしてもやらなければならない支援があって、シングルマザー家庭への食料配給や、その場でポーランドへの避難の段取りなど、王さんの仕事が残っていました。


 もう一つ大事なミッションは、避難所となっているリビィウの教会におられる1組の親子(お母さんマリアさん、2歳の息子と1歳の娘)をポーランドのワルシャワ駅までお連れするというものでした。

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「避難所となっているリビィウの教会」


身の回りの最低限の生活用品を車に積んで出発と行きたかったのですが、その時はもう午後の3時を回っていて朝から食事をしていないということなので、ご主人とともに近くのレストランで遅いランチタイムとなりました。まだ20代後半の夫婦です。ご主人は出国できずウクライナに残って来週あたり兵役につくようです。


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「マリアさんご家族」


 食事の間もいつものように子どもの世話をしながらも、この後の別れを思うとこちらが食欲をなくしてしまいました。食事も終えていよいよ出発です。若い夫婦の別れ、抱擁しキスもし子どもともハグしながら別れを惜しんでいました。奥さんと幼い子どもたちは安全な場所に避難し一安心だけれど、ご主人はこれから戦場に赴く。この別れは、今度いつ会えるかわからない、そればかりかもしかしたら生きて2度と会えない別れになるかもしれない。傍で見守る森さんも、私たちも涙を抑えることができませんでした。目の前の状況は、このウクライナで一体どれだけ日々繰り返される別離なのか。1日でも早い戦争の終結をその場で祈りました。


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「つらい別れ」

 さあ、これからワルシャワまでノンストップでも10時間以上はかかります。まずは国境へ。ウクライナのシェヒニ国境検問所に続く道には10キロ以上も続くトラックの車列。ポーランドからウクライナに様々な物資やオイルなどを運び込んだトラックがポーランドに戻るには、この国境検問所の通過に3~4日かかるようです。私たちは人道支援レーンでウクライナの出国は割と早く済んだのですが、ポーランド入国には厳しいチェックが待っていました。3時間待ってやっと順番が回ってきましたが、パスポートのチェックと同時に、すべての荷物を車から下ろし、中身をチェックです。兵士のすることですからスーツケースの中身を引っ掻き回すように確認します。問題なくOKが出ましたが、もうすでに夜の10時を過ぎていました。ここからワルシャワまでは時間的にも、何よりも岡さんの容態を考えると無理と判断して、先日と同じホテルに投宿。


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「延々と続くトラックの車列」


しかし、ここで一悶着ありました。今日中のワルシャワ行きを断念したことにマリアさんが激怒。「私は絶対すぐにワルシャワ駅まで行きたい!車で行けないならここから電車かバスで行く!」と断固として折れない。ご主人に電話し王さんも話されていましたが、この時間に電車もバスの便もあるはずもなく、とりあえずホテルにチェックインして岡さんをベットに寝かせて、マリアさんを近くの駅とバスターミナルに連れて時刻表を確認しましたが、それでも怒りは治らない。ちょうどバスターミナルで一晩明かそうとしておられたウクライナの避難民のご婦人がおられ、マリアさんに一言。「ここはウクライナと違ってチケットがないとバスには乗れないわよ」とい言ってくださったことで、マリアさんの混乱した心の怒りもす~と治まり、ホテルで1泊することになりました。これだけを読まれるとなんだかマリアさんのわがままのように写りますが、確かに王さんも困惑していましたが、2人で確認したことは、住み慣れた街や家から離れ、二人の幼い子どもを抱いてご主人とも別れなければならなかったマリアさんの心の混乱や不安は、私たちには計り知れないものだ。私も以前インドネシア津波支援の避難所で、支援者の働きに文句ばかり言って感謝することさえなかった人々のことを思い出しました。でもやはり、極限の中にいてそんな私たちの常識が通じるわけはありません。支援することはその人に「仕える」ことなんだと、改めて思わされた出来事でした。

 さてその間も岡さんはどうなっているのやら。後で元気になってから聞いてみると、ウクライナを出国したことやホテルのベットに倒れ込んだことも、なんと元気溌剌な2人の子ども達、車の中で暴れるわ、ジュースを撒き散らすわ、おしっこを漏らすわと、国境ではボーダーラインを走って越えようとするわ、それはそれは壮絶な状況も、何一つ記憶にないそうです。

 次回はマリアさん一行をワルシャワ駅までお連れしたり、「岡さん点滴する編」を報告します。

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2022年11月01日

世界規模の「切迫した食糧危機」に対するSmall Action

今年も世界食料デーのイベントが、全国で開催されています。
今私たちに静かに迫るのは、世界規模の「切迫した食糧危機」です。
どう対応して行ったらいいんでしょう。
原因のほんの一部の紹介と、わずかながらの提案です。
少し立ち止まって日常を顧みながら、飢餓と貧困に苦しむ方々へ、手を差し伸べ続けてください。

ーハンガーゼロ 田村 治郎 世界食料デーでの講演から抜粋


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「ミツバチの減少」


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「肥料の高騰」


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「食料自給率」


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「Small action 1」


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「Small action 2」


PDFファイルはこちらからご覧ください。

WFD資料①_ミツバチの減少.pdf

WFD資料②_肥料の高騰.pdf

WFD資料③_食料自給率.pdf

WFD資料④_Small actionn 1.pdf


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2022年10月26日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記 _6回目

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「8月16日の行程」


 ポリチャ小学校を後にした私たちは西部の都市リビィウに向かいました。1時間ほどでしょうか、リビィウは人口83万人の大都市で、石畳が広がる街並みの美しさに私たちは目を奪われました。そこで王さんから「これから病院にお見舞いにいきましょう」と提案され、お見舞いの花や果物を買い込んで訪問した先は、タチアナさんというご婦人です。彼女は東部の町からここに担ぎ込まれてきました。自宅の庭で娘さんと電話をしているその時、空襲警報も鳴らないままロシアのミサイルが着弾、その爆発で左足を付け根から失ったのです。右足にも大きな火傷がケロイド状に残り、それが突っ張って今も痛いとのこと。決してきれいとは言えないベットのシーツに座って、私たちのお見舞いを大変喜んでくださった。森さんを横に座らせて、私たちの訪問を何度も何度も感謝されていました。同じ病室にはあと2人のおばあさんも入院されておられ、隣のベットのおばあさんは携帯電話で娘さんと何やら話し込んでいますが、泣いて泣いて何かを訴えているようです。向かい側のベットに横たわるおばあさんは、顔だけ私たちの方に向けて何度も訴えるように話しかけてこられましたが、言葉がわからない私たちはただ笑顔を返すしかありませんでした。いつ故郷に帰れるのでしょう。人生の晩年にこの苦しみを味わうなんて、胸の詰まる思いです。
 


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「タチアナさん


 さて、そこを失礼して今日3回目最後のコンサート会場であるイバノフランコフスクの復活教会へと急ぎます。2時間半ほどの道のりですが、すでに約束の時間に遅れ気味です。30分遅刻して会場に到着しました。なんと入り口には50名以上の避難民の方々が私たちの到着を待っていてくださって、私たちと一緒に会場入りです。とは言えすぐに始められるわけでもなく、小1時間ほど公開リハーサルとなりました。また少々音響トラブルの解決の間、舞台の前説のように私がHungerZeroの紹介やここに来させていただいた経緯などを話し、いよいよコンサートの開始です。他の2回のコンサートと同じ曲目に加えて英語と日本語でアメージンググレイスも皆さんと一緒に歌うなど、楽しいひとときでした。


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「イバノフランコフスク・復活教会でのコンサートの様子」


 コンサートが終わると参加された避難者の数名が前に出て感想を話してくださいました。お1人の婦人は「当初私は避難者を助ける側でしたが、戦況が悪化するにつれ私たちの街も攻撃され、今度は自分が避難者になり、不安と恐れに苛まれてしんどい鬱症状を発症してしまった。でも今日ゆりの歌を聞いて希望を持つことができた。Дякую! ありがとう!」と、笑顔と涙が混ざった輝くような顔で話してくれました。後に森さんは「あの婦人の言葉をいただいて、本当に来て良かった」と、あの言葉によって森さんの中にもあった葛藤が吹っ切れたのだそうです。

 コンサート終了後に、会場となった復活教会の牧師スタッフ方が夕食を用意してくださって、しばらくおいしい食事をいただきながら楽しい語らいの時でした。そこで若い牧師が「明日もここに来て歌ってほしい!」とリクエストしてくれましたが、私たちは帰国のために明日ポーランドに戻らなければなりません。そのことを伝えると、「じゃ、今度はいつ来てくれるんだ?」と熱く熱く訴えられるもので、思わず「では来年!」と答えてしまいました。「じゃ、次回はここだけでなくあそこもあそこでも」とすでにコンサートの予約が。なんとも話の流れで「来年!」と出たことでしたが、でも私たちはもう一度来たい思いはありました。次回は最善のかたちで戦争が終結し、戦後の復興の一場面でお役に立つことができればと願っています。


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「復活教会の牧師スタッフの皆さんと」


 コンサートを終えてその夜宿泊するホテルへ。フロントで手続きと部屋の鍵等の説明を受けて部屋に行こうとした私たちに「もう一つ確認事項です。もし空襲警報がなったら、そこの正面玄関を出て右に行くとシェルターがあるので避難してくださいね」とニッコリ。やっぱりここは戦場なんだと身構えました。幸いその夜は何事もなくぐっすり眠れたのですが、この日から2ヶ月後の10月10日と11日、この美しい都市リビィウにロシアからのミサイル攻撃があり、4つの火力発電所が破壊されました。

 次回は、ポーランドに戻る途上での出来事、特に「岡さん発熱する!」を報告します。

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2022年10月20日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記_5回目

 ブチフ小学校から2回目のコンサート会場であるボリチャ小学校までは、約1時間ほど。やはり田舎町の街道を走ります。私たちの目に突然飛び込んできたのは、見渡す限り一面のひまわり畑。地平線の彼方にまで続くひまわり畑です。残念ながら花の季節が終わった直後だったようで、あの黄色く雄大なひまわりの花を見ることはできなかったのですが、それはそれは壮大な景色でした。

 一つ思い出しました。私がちょうど10歳の頃、両親は映画が好きでよく小学生の私を連れて観に行っていたのですが、巨大なスクリーン一面に映し出されるひまわり畑のシーン。それはソフィアローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演の1970年イタリア映画「ひまわり」の一シーンです。でもその記憶は偶然でなく、あの映画のひまわり畑はウクライナ中部の都市ポルタワ近くにあるチェルニチー・ヤールという村で撮影されました。そしてそのひまわりが咲く畑の下には、第2次世界大戦時に戦死した多くのイタリア兵やロシアの捕虜が埋まっており、そして無数のロシアの農民も老人、女、子どもたちもまた埋葬されているそうです。その悲しい歴史の事実の上に、今また悲劇が繰り返されています。

 ロシアがウクライナに侵攻した当初、ウクライナ人の老婦人とロシア兵とのやり取りがBBCニュースで流されました。老婦人は兵士に向かって「あなたたちはここに何しにきたの。侵略者でしょう。この種を持って行きなさいよ。あなたがここで死んだらひまわりが生えるように」と訴える言葉に胸が詰まります。

 やがて小さな町に入るとすぐにボリチャ小学校が見えてきました。ブチフ小学校と比べて、規模の大きな学校で、避難者の数も10倍ほどでしょうか。コンサート会場である食堂に入ると何やらいい匂いがしてきます。キッチンを覗くと20名ほどの婦人が黙々とあるウクライナ郷土料理を作っていました。何やら餃子の親玉のような大きさの「ペリメニ」という主に鶏肉を包んで作る水餃子だそうで、何千個とあったように思います。聞いてみると、戦場で戦う兵士の食料として送られるそうで、1日も早い終戦を願い、前線で戦う兵士が飢えることのないようにと祈りを込めて作っておられました。

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「祖国の味「ペリメニ」を作る婦人」


 ここでも日本語・英語・ウクライナ語と織り交ぜながらのコンサートです。ここにはティーンエイジャーも多数おり、少々照れながらも子どもたちやお年寄りに混じって楽しんでいました。
 
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「ポリチャ小学校でのコンサートの様子」


 コンサートが終わって、東部から避難されてこられたご家族に短くインタビューをさせていただいたのですが、その最後に森さんから「何か日本へのメッセージはありますか?」との問いかけに、異口同音静かに語ってくださったのは「日本が平和でありますように」でした。「平和」という言葉、平和な日本で聞く「平和」と、今現実に平和が破壊されている地で聞く「平和」、同じ言葉でもその重さの違いを受け止めた思いです。

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「インタビューに答えてくださったご家族の皆さん」


 聖書に「平和をつくる者は幸いです」という言葉があります。誰しも「平和」を愛し「平和」を願うでしょう。今私たちの生きるこの世界は混沌としており、取り返しのつかない結果を招く一触即発の案件は枚挙にいとまがありません。だからこそ私たち一人一人がそのところで「平和」を作り出すPeacemakerと生きることの大切さを、一面のひまわり畑を思い出しながらしっかりと受け止めました。

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「コンサート後の記念撮影」


 さて、そこを失礼して私たちは一路西部の都市リビィウへと向かいました。車は幹線道路から離れ、幾つもの村をつなぐ悪路を走ります。その途中、小さなロータリーに何やら多くの村人が手に手にローソクを携えて道端に集まっておられました。お伺いすると、この村から出兵した兵士が戦死し、今その遺体が今日村に帰ってくるのだそうで、皆でそれを迎えるためにここに出てきている、とのことでした。目の前に広がる光景に、やはり「ここは戦場」と改めて身も心も引き締める私たち一行でした。
 
 次回は続けてリビィウでの病院訪問やコンサートの様子を報告します。

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2022年10月14日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記 _4回目


 さて、今回から現地での活動を報告します。
 8月15日の午後ワルシャワに到着した私たち一行は、休む間もなくウクライナとの国境の町プシェミシェルへ。

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「国境の町、プシェミシェルへ」

 

大型のバンに支援食料を大量に積んで、HungerZeroの現地協力者の王(ワン)さんの運転でアウトバーンをひた走ること6時間!「お茶の一杯くらい・・・」と森さんのため息をワルシャワに残し爆走!ちなみに車のエアコンは壊れていて、この時期ポーランドでも日中は30度にもなり、窓を全開に、爆風を顔面に受けてのドライブです。

 今回、現地のアテンドをしてくださった王さんは、台湾人の青年(自称)で、以前台湾で日本企業で働いていたり、ウクライナ大学での留学経験があったりと、日本語・台湾語・ロシア語・ウクライナ語に堪能で、今回は何から何までお世話になりました。また彼は超人的な体力の持ち主で、少ない睡眠でもポーランド~ウクライナ往復のべ50時間以上のドライブを居眠りすることもなく、全くの疲れ知らずでハンドルを捌いてくれました。


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「現地協力者の王さん」


 私たちは彼を尊敬と感謝の思いを込めて「サイボーグ001(ワン)」と呼ばせてもらいました。そんなこんなで夜の10時過ぎにプシェミシェルのホテルに到着。食欲と睡魔、どちらにも打ち勝てず唯一のレストラン・マクドナルドのハンバーガーをお腹に流し込み、爆睡。

 翌朝は6時過ぎにホテルを出発して、いよいよウクライナに入国です。戦争当初はウクライナからの避難民でごった返していたTESCO(元大型スーパー)避難所に寄り道。一時閉鎖していたこの場所が現在はまた小規模に再開していました。
さあ、ここから国境越えです。私たちは支援食料を積んでいましたので、一般レーンでなく「人道支援優先レーン」を通って出国・入国手続きをし、ほぼ1時間でスムーズにウクライナ入国です。


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「国境を越えウクライナへ」


しばらく長閑な田舎道を通り過ぎて1時間ほど、最初のコンサート場所であるブチフ小学校に到着しました。時間は朝8時過ぎ、まだ子どもたちは寝ている時間でした。小さな校舎が1棟あるだけで、コンサートをどこでするかバタバタ準備をしているうちに、一人二人と子どもたちもお目覚めで、結局廊下に椅子を出してそこがステージとなりました。


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「最初のコンサート会場プチフ小学校」

 

 参加くださったのは15名ほどの子どもたちや数名のお母さん、一人のおじいちゃんで、「幸せなら手を叩こう」など日本語の歌にも一緒に手やお尻を叩いたり、元気に足踏みをしたりと、笑顔のコンサートとなりました。またこの後のコンサートで歌うのですが、2曲のウクライナ語の歌(ウクライナ国家・ウクライナ讃美歌)も一緒に口ずさんで、コンサート後も撮影大会やゲーム大会、人懐っこい子犬と戯れながら、しばらくの時間でしたが楽しい時間を過ごしました。
 そうこうしているうちに、次のコンサート会場であるボリチャ小学校に移動しなければいけません。お暇のご挨拶をすると、ここで何から何まで事細かにお世話くださったご婦人が、「食事して行きなさい」と私たちをキッチンへ。その方はロダさん(薔薇という意味)といい、その名のように明るく元気なご婦人です。でもご家族のことをお伺いした時、あんなに元気で明るかった顔が一変。「夫は先月マリウポリの戦場で戦死しました」とポツリと語られた。ここにおられる一人一人は、こんな言い知れぬ痛みや悲しみ、不安を抱えて過ごしておられるんだという現実を、子どもたちの溢れるような笑顔の向こうに見る思いでした。それは、これからの場所で出会う一人一人の人生にも同じで、どんなに長閑な風景の中にあっても、やっぱりここは「戦場」なんだと思いを新たにする経験でした。


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「ロダさん(黒いTシャツのご婦人)」

 

 さて、次回は2つ目のコンサート会場の様子や病院訪問など報告します





           「プチフ小学校でもコンサートのご様子」

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2022年10月07日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記 _3回目

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 PCR検査も3度目となれば、もう慣れたもんで、クリニックへ向かう道も覚えてしまったし、検査料金の支払い、「明日の朝8時に検査結果を聞きにくる」と伝えるのも、クリニックスタッフとも顔馴染みになってそれはもうスムーズなもんです。鼻咽頭ぬぐい液でグリグリしてもらう間も、お喋りをしたり、とは言っても言葉が通じませんので、そこは雰囲気で。和やかに検査が済んで、それで陰性になるわけではないのですが、祈る気持ちの現れですかね。

 さて、翌日、これもいつものように荷物をまとめホテルをチェックアウトし、いざクリニックへ!3回目の結果は、なんと森さんが陰性で、残りのオヤジ2人が陽性でした。満面の笑みを湛えて森さんは機上の人となりましたが、さて、後に残されたオヤジ2人、まずは帰国便のチケット変更の手続きと4泊分のホテル探しから始めないと。もうこれも慣れたもんで、予約サイトからささっと手続きは完了。

 ワルシャワに足止めになっている間も、帰国後即しなければならない仕事がワンサとあるので、互いに部屋に籠もっての作業に励みました。夕食前には、少し早めに外出して、何度も訪れた旧市街を散歩し、仲良くベンチに腰掛けてソフトクリームを味わうなど、一見のどかな時間を過ごしているようでも、実のところ私たちはあるストレスと向き合ってもいました。それは、日本に「帰りたくても帰れない」現実を受け止められない空疎感と、それに対して何も自ら一手を講じられない無力感です。

 HungerZeroスタッフになって21年。アフリカ、南米、アジアの様々な活動地に訪問させていただいて、そこでは幾度となく食中毒も経験しましたし、2008年には中国でSARSに罹患して1週間入院もしました。車が橋から転落しかけたことも2度、兵士に銃口を向けられること3度、その度に全身に纏わり付くようなしんどく不快なストレスを感じてきました。しかし、今回の帰国できない状況に陥ってのストレスは、また異質の重さで私たちの心を圧迫しています。

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 仲良くベンチに腰掛けながら、岡さんとそんな気持ちを話し整理できたことは、このような経験は私たちにとってとても意味ある感謝なことのはずだし、帰りたくても帰れない、自分の意思が全く省みられない状況は、今遠く故郷を離れ、家族とも離別し異国の地で避難を続けておられるウクライナの人々の悲しく辛い気持ちを、100万分の一でも感じ取れることかなあと話していました。もちろん、私たちは陰性証明があれば帰国できますし、あの時点では9月7日以降は無条件で帰国できる立場です。比べるには全くおこがましいのですが、このストレス、この如何ともしがたい気持ちを、これからの支援の働きにあって決して忘れてはならないと、石畳の向こうに沈みゆく夕日に影を伸ばしながら、2人のオヤジはしかと心に受け止めたのでした。

 さて、4度目のPCR検査。結果はめでたく2人とも陰性で、やっとこさの帰国と相成りました。背後にある皆様の励ましとお祈り、特にメロデイ会の皆様の絶え間ない励ましとお祈りに感謝申し上げます。

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 と、これで報告が終わっては何しに彼の地に訪問したのか分かりませんね。次回から現地での活動を紹介いたします。お楽しみに!

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2022年10月04日

2022年8月ポーランド・ウクライナ訪問記 2回目

 2回目のPCR検査で陽性となった私たちは、近くのカフェのソファーに身を沈め、カフェでなんとか気力を蘇らせ、航空券の変更手配やら新たなホテル予約やら、今後の5日間の生存確保を始めました。田村一人が陰性でも、さすがにゲスト2人を残して帰国できず「介護者」として居残ることにしました。この時点では皆が元気に回復していましたので、ホテルに落ち着いた後、少し街中を歩いて体力を回復しようと旧市街にある旧王宮広場まで足を伸ばしました。

 見事な建物群に目を奪われながら、「あ!このクラクフ郊外通りにある聖十字架教会とこのコペルニクス像は、映画『戦場のピアニスト』の中でナチス・ドイツ軍が進軍するシーンで見たぞ!」と感動しつつ、旧王宮広場に到着してみると、何やら特設ステージもあり、ブルーと黄色のウクライナカラーの洋服に身を包んだ人々が、集まって来るわ来るわ、最終的には数万人が広場は埋め尽くしてしまいました。なんと、この日8月24日はウクライナ独立立記念日で、ここポーランドでも避難されて来られた難民の方々が共に集い祖国への思いに心を一つとされていました。私たちも「その日、そこ」におらせていただいたことは、思いもよらぬプレゼントだったと感じています。

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 セレモニーのオープニングは国歌斉唱。ステージの下では大きなウクライナ国旗を子どもたちが携えています。そこに目を凝らしてみると、なんと森さんも子どもたちの輪に加わって国旗を持ち、号泣していました。いつの間に。地元のカメラクルーも、アジア人が国旗を持って号泣している姿に感動したのか、やたらとレンズを向けていました。きっとその夜のニュースでは「アジア人、号泣する」姿が紹介されていたのでは。

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 その後ステージでは、ロシアの攻撃を受ける首都キーウや他の町々の姿が映し出され、続くゼレンスキー大統領のスピーチでは、全員が身動ぎもせず、涙を流しながら祖国を思い、そのことばの一つ一つに聞き入っていました。

 広場にはいくつもの露店が出ていました。その一つにトイレットペーパーにプーチン大統領の顔写真をプリントしたものが一つ20ズウォティ(約600円)で売っていました。記念に一つ購入しましたが、聞くところでは、射撃の的に同じようにプーチン大統領の写真をプリントして、兵士が撃ち抜く。子ども達までもが射的の的に同じようにプリントしたもの目掛けて射る。それに表された人々のプーチンに対する「憎しみ」を痛感しました。

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 私たちはここでの経験をまだ咀嚼(そしゃく)できないまま、今日ユダヤ人博物館(POLIN Museum of the History of Polish Jews)で見てきた歴史の事実や、ワルシャワの街中に残るゲットー(ユダヤ人強制居住区域)の跡地など、歴史に刻まれた「痛み・悲劇」を思い返し、少々混乱した頭を夕風にクールダウンさせながらホテルへと戻りました。
 
 さて、明日はいよいよ3回目のPCR検査です。結果は?それは次に報告します。

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2022年09月30日

2022年8月_ポーランド・ウクライナ訪問記_1回目

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 ロシアがウクライナ侵攻を開始してちょうど半年経過した8月14日~9月3日まで、私は若い安達スタッフとともに、HungerZero親善大使の森祐理さんとモリユリミュージックミニストリーの理事であり、28年にわたって音響からツアーマネージメントなど一切をサポートしてこられた岡さんと4名での訪問でした。

 森さん岡さんとは、2006年に親善大使に就任くださるきっかけとなったアフリカ・エチオピア訪問からご一緒させていただいており、16年のお付き合い。ちなみに岡さんと私は生年月日が全く同じ(1960年3月5日生まれ)で、お互いに「二卵性双生児」と呼び合って親しくさせていただいています。まあ、そんな間柄でもあるので、いつもツアーは珍道中気味で、色々とハプニングが勃発。今回も色々とありました。

 当初は、各々の仕事の関係で1週間の弾丸ツアーで、訪問地もポーランド内のウクライナ難民施設でのコンサートのはずでしたが、直前になってウクライナ西部のリビウにある3カ所の国内避難民施設でのコンサートも追加で決定し、スケジュールの調整と、安全な西部の都市と言っても戦時下の国に入国するわけですから、心の姿勢も正していかなければなりません。

 ツアーの詳細は2回目以降に報告させていただきますが、今回もやっぱりとんでもないハプニングが勃発です。見事に私たちは現地でコロナに感染してしましました。まず岡さんが発症し、次に田村・森さんと仲良く分かち合い。さすがに若い安達スタッフは罹患せず予定通り元気に帰国しました。帰国予定前日にPCR検査を受け、当日は荷物をまとめホテルもチェックアウトし、あとは空港に行くまでに整えて検査結果を聞きにクリニックに。見事3人陽性でした。まあ、発熱もしていて喉も痛く咳き込んでいましたらか予想通りといえばそうですが、ここから長い2週間にわたる「帰国難民」生活が始まります。
 ポーランドでは陽性者にも特別な行動制限がなく、旅行者に対しては1週間程度のホテル経過観察療養程度で、自由に食事や滞在に必要な品物を買い出しに出かけられました。数日後には熱もすっかり下がって体力も回復してくると、ワルシャワの旧市街などを散歩もでき、街中に記憶されている様々な歴史と向き合うこともできました。
 
さて、1週間が経ってもう大丈夫と言い聞かせ、2回目のPCR検査に臨みました。同じように万全の帰国体制に整えて。結果は、なんと田村だけが陰性で森さん岡さんは陽性!結果を突きつけられた時の森さんは茫然自失、しばし身動き取れず、しばらくして発した言葉は「カフェラテが飲みたい・・・」その時の顔を皆さんにもお見せしたかったですね。

この続きはまた2回目の報告で。

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2020年10月08日

HungerZeroハイスクーーーール!! Mambo sawa-sawa

【HungerZeroハイスクーーーール!! Mambo sawa-sawa】
第2回目「飢餓と貧困の現場から・生き抜く力!」なんですか?


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 飢餓や貧困で苦しんでいる人々は、単に食べるものがない、また一定の経済活動ができない、だけでなく、人としての「尊厳」が失われているケースが非常に多い。 ましてや紛争地では、まるで虫けらのようになぶり殺される人々もいます。 たとえ九死に一生を得ても、生き残ったことを喜べるどころか、生き残ったことに嫌悪感さえ抱く人々もいます。

 また、食べるものがなく飢餓で苦しんでる人々に、極めて貧しい生活を強いられている人々に、では食料を分かち合い、現金を支給したからと言ってそれで立ち上がり生き続けることができるとは言えないのです。

 人々の置かれた状況下で失われた人としての「尊厳」、その回復が支援活動の中にしっかりと組み込まれている必要があります。

 それは、「誰もが失われて仕方がないなどという存在でなく、唯一無二の尊い存在であり、誰もが生まれながら潜在的な能力が与えられている」ということを伝え続け、一人ひとりに気づきを与えて行くことなのです。

 私たちは、地域主導コミュニティ開発をVision of Communityと呼んで、コミュニティ・そのに生きる住民にすでに与えられている潜在的な資源や能力を発見し、用いることを行っています。

 人々は、何世代も続く貧困の中で、「この村は貧しくて何もない村なんです。 私たちも何も持っていません。」「私たちは貧しく生まれたので貧しく死んでいく」と、その心に刷り込まれているその考え(マインドセット)から脱却するお手伝いが必要です。

 確かに、あれも、これもないけれど、でも「この村に、この村人にすでに与えられている資源・能力がある!それを見出し、それを用いることなんだ!」と気づいて行く時、人々は立ち上がり、歩み出すことができます。これも人の「尊厳」の回復といえるでしょう。


「私は生きてていいんだ!」そして、「与えられた生命と人生を人々と共に生きるんだ!」と告白していきます。

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2020年10月07日

HungerZeroハイスクーーーール!! Mambo sawa-sawa

HungerZeroハイスクーーーール!!Mambo sawa-sawaは中学生、高校生(にかかわらず)を対象に飢餓の現状や情報について、「Oneテーマメッセージ」としてスタッフがお伝えしていく、いわば教育番組的な企画です!

 普段、スタッフに電話したり、会いに行ったりしないと聞けなかったりすることや、研究発表の題材として「国際協力」や「世界の飢餓」について調べてみたいんだけど良い情報ないかな〜というそこのキミ!HungerZeroハイスクールを見てな!
 あと、質問があったり、このテーマについて教えて欲しい!というのがあればコメントに残してください!
みんなの疑問が番組企画になるかも!ヨロシクおねがいします!

 ちなみに動画冒頭にあるMambo Sawa Sawaはスワヒリ語で、日本語だと「も〜んだ〜いないさ〜〜〜♪」って意味です!

 という番組をHunger Zeroチャンネルに順次アップしていきます。ここでは、その番組の概要をアップしていきますので、ぜひ読んで番組を見て、また番組を見てこれを読んで「わたしから始める、世界が変わる」アクションを起こしてください!

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第1回目「世界の飢餓人口は減少した?」本当に?

 今まで世界に飢餓人口は8億1,500万人とお伝えしてきました。しかし、2020年版「世界の食料安全保障と栄養の現状」報告書 (The State of Food Security and Nutrition in the World )では、約6億9,000万人と更新されています。一見すると、「一億人以上も減少している!」ように見えますか、現実はそう喜んではいられません。

 中国など人口を多く抱える国の情報が更新されたため、数年前に遡ってさらに正確に推定されるようになった、ということです。ですから決して減少したとは言えない現実があります。むしろ、ここ5年間で6,000万人近くが増加したと言われています。このままでは、2030年には飢餓人口は8億4,000万人に昇ると予想されています。

 日本でも官民挙げて取り組んでいるSDG'sの「2030年までに飢餓をゼロに!」の目標とは真逆の状況となってしまいます。特にアフリカでは飢餓に苦しむ人々が最も多い地域となっていきます。

 世界の飢餓人口は2019年現在、アジアが3億8,110万人(55.4%)、アフリカは2億5,030万人(36.4%)、その他中南米・オセアニア等が約5,000万人強(8.2%)ですが、2030年には、アジア3億2,920万人(39.1%)、アフリカ4億3,340万人(51.5%)、中南米・オセアニア等が約7,050万人(9.3%)となり、世界の飢餓人口分布は大幅に変更するでしょう。

 また、この予測はCOVID-19によるパンデミックは組み込まれていないので、世界食糧計画(WFP) デイヴィッド・ビーズリー局長の発表によると、 これを踏まえた予想では、2020年までには今より1億3,500万人から最大2億5,000万人の人々が慢性的な飢餓状態に陥るとされています。

 途上国の現状は極めて厳しい状況です。私たちも現地の協力団体を通してコロナ感染拡大による食糧難や保健衛生状況の改善活動を行っています。

 どうぞ「緊急救援募金」にご協力お願いします。

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2017年06月13日

私たちの長男の1才の誕生日を一緒に祝ってほしい

 3年前、訪問したフィリピン・ミンドロ島の村でのこと。私たちを港から村まで送り届けてくれたジープニーのドライバー、彼の息子のバースデーパーティに招いていただきました。

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2017年05月01日

地域変革の鍵、人財育成...SALTYとLIGHTSの生き方(3)

 地域変革を担う人財育成セミナーによって、一人一人の意識変革を促していくのが「SALTY&LIGHTSな生き方」の学びです。

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【写真:フィリピン ・ マブハイ小学校の子どもたち】
※関連記事:【フィリピン】待望の2つ目の教室が完成

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2017年04月01日

地域変革の鍵、人財育成...SALTYとLIGHTSの生き方(2)

 途上国に生きる人々の極度の貧困状況は、人々を時に自分たちでは抗うことのできない絶望的な事柄と思わせてしまいます。そのような中から「私から始める」と立ち上がることができたとしたら、まさに人々を取り巻く「世界が変わる」はずです。地域変革を担う人財育成セミナーは、そのために一人一人の内側からの変革を促していくものです。

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【写真:SALTYを実践しているコンゴ民主共和国の人々】

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2017年02月01日

地域変革の鍵、人財育成...SALTYとLIGHTSの生き方(1)

 2012年にアフリカ・ニジェールで、翌2013年にはコンゴ民主共和国で、人財育成セミナーを開催しました。そこには地域変革を願うコミュニティリーダーや牧師、また多くのビジネスマンが集い熱心な学びの時となりました。

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【写真:子どもクラブでごみの分別を学んで実践(カンボジア)】

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2013年01月24日

貧困を固定化する社会構造の改革に必要なものは、「私から始める、世界が変わる」人財の育成

 昨年の5月31日、厚生労働省は21回目となる「完全生命表」の中で、2010年の日本人の平均寿命は、男性79.55歳、女性86.30歳であると発表しました。前回の調査時(2005年) より女性は0.78歳、男性は0.99歳上回っています。日本は世界一の長寿国です。

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2012年10月02日

10月16日、世界食料デーを覚えて

 1981年、世界の食糧問題を考える日として国連が制定した日、それが10月16日「世界食料デー」です。世界の一人ひとりと協力しあい、世界に広がる栄養不良、飢餓、極度の貧困を解決してゆくことを目的としています。この日をきっかけとして自分自身の生活を見直し、少しでも世界の人々と共に生きる生き方を実践しようとする人が増やされてゆくことが「世界食料デー」の願いです。当機構はこの趣旨に賛同し、同じ思いを持つ全国の人々と共に行動してきました。今年も全... 国20箇所で「世界食料デー大会」が開催されると共に、ご家庭で、学校で、職場で、教会でさまざまな取り組みが行われようとしています。
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2012年05月13日

「母の日」に、そして「父の日」に思うこと。

毎年5月になると、この日本を含め世界の多くの国々で母の日が盛大に祝われます。筆者も小学校のころに、母の似顔絵や感謝カードを手作りし、赤いカーネーション1本を大事に抱えて『お母さんありがとう!』のことばを添えて送ったことが思い出されます。今、自分が親になって子どもたちが同じように感謝の心を表している姿に、子育てには苦労も伴うものですが、親であることに喜びを感じます。


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2012年04月23日

希望と自信を見いだす時~バングラディシュの女性たちに見る変化~

 数年前の夏、筆者は拙団体の企画するスタディツアーの引率者として、日本の支援者の方々が長年支援してくださっているバングラデシュを訪問してきました。首都ダッカをはじめ、国際飢餓対策機構活動地のボグラ、マイメイシンを訪問する2週間の旅です。

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2012年02月19日

真の豊さを生きるためには

 「真の貧しさとは、すでに与えられている潜在能力に気付かず、何も用いないことだ。」

 これは数年前にフィリピンの活動地を訪問させていただいた折、首都マニラの北部にあるサンローク地区の水上生活者のエリアで出合った、地域リーダーのゴエゴロ牧師の語った言葉です。

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2012年02月03日

人生のモデル

 P1010819.JPG年に数度、活動地を訪問させていただいている。その時の楽しみの一つに、現地の人々との出会いがあります。 続きを読む

2012年01月23日

善隣共生のいっぽ

 昨年末、搭乗したある航空会社の機内誌にベトナム・ホーチミン市中心部にある日本人オーナーのトナム料理店が紹介されていました。そこは数年前、ホーチミン在住の友人夫妻に連れて行っていだいたお店でした。

 

フーンライ

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