8月6日~8月8日まで、仙台では七夕まつりが開かれていました。
私は8月初めからまた東北に行かせて頂いておりましたので、ちょうど七夕まつりど真ん中でした。
毎日が祭りだったらいいのにと思うくらい祭り好きな私は、ぜひ七夕祭りがどんなものか見てみたくて、
ワクワクしながら足を運んでみました。
街はたくさんの七夕の飾りで彩られていました。
そこにはたくさんの願いが込められていました。
短冊にはたくさんの祈りが込められていました。
「もう織姫でも彦星でも何でもいいから、神様どうかこの願いを叶えて下さい。」
と、願い事の上にさらに願い事をして帰ってきました。
心がチクリと痛んだちょっと切ないお祭りでした。
最近、ブログ更新をスッカリ怠っておりました。
伝えたい事はたくさんあるのに、
感じた事はたくさんあるのに、
それをどうにもこうにも言葉にする事ができなくて。
私の薄っぺらい言葉で表現すると、内容まで薄っぺらく思われてしまうのが何だか怖くて。
でも、そんな事言ってたら一生更新出来なさそうなので、
ここは「よっしゃーー!」と自分自身を奮い立たせて今からタイプしまくりたいと思います。
今回は東北で出会った元気なおばあちゃんの事を書きたいと思います。
彼女は3月11日のあの日、地震が起こってからすぐに近所のおじいちゃんやおばあちゃん方を連れて、
避難所へ懸命に逃げ込んだそうです。
「もうあの時は必死で、自分でもどうやって学校までたどり着いたのか覚えてないよ。」
そうおっしゃっていました。
そして、避難所生活の最初の3日間は自分で持ってきた食パン1枚を、
周りにいた6人の方と分け合って食べていたそうです。
「避難所で自分のできる事は何でもやったさ。雪の降る中トイレ掃除も毎日やったよ。
水が出なかったからね、プールからバケツで水を何度も運んだよ。」
そう笑いながら話す彼女を、私は心底尊敬しました。
避難所生活も日数が経つにつれ、親族と再会し涙を流して喜び合う人が出てくる一方、
遺体となって再会し、気が狂ったように泣き喚く人たちも大勢いたそうです。
「自分の娘の遺体と対面したご近所の方がね・・・・。もう、気違いのように泣いてね。
私もどう声をかけていいのかわからなかったんだよ・・・。」
それまで元気に話されていたおばあちゃんが、ふっと影のある表情をされて、
その瞬間私の中の涙腺の糸がプツンと切れたように、ポロポロ泣けてきました。
「被災者の方の気持ちなんて到底私に理解できるはずがないのに、生半可な同情で涙を流したらダメだ!!」
・・・と思ってはいても、後から後から涙がこぼれました。
最後に私はこんな質問をしました。
「震災以来つらい状況の中にあると思いますのに、どうしてそんなに明るくいられるんですか?」
すると、おばあちゃんはこう答えてくれました。
「こうして命が与えられて、私は神様に生かされた。だったらその命を誰かを元気にするために使わなきゃ!」
そうして大きく笑って、逆に私を元気にしてくれたのでした。
東北に行くと毎回思います。
人を助けるってなんだろう。
本当の支援てなんだろう。
本当の復興ってなんだろう。
どちらかが一方的に何かを与え続ける事は本当の助けにはならないし、
本当の支援ではないし、
本当の復興には繋がらない気がします。
そうではなくて、支援する側と支援される側の立場を超えて、
お互いがお互いを思いやり、助け合い、愛し合う。
そうなる事が本当の支援であり、本当の復興のかたちなのではないかな・・・と私は思います。
余談ですが、今回仙台港から名古屋港までフェリーで帰ってきました。
名古屋では全然見えない星が、海の上ではたくさん見えました。
星の光を遮る都会の人工的な光は1つもなく、真っ暗な海の上にただ星の光だけがキラキラと輝いていました。
「今まで見えなかったけど、星って実はこんなにあるんだ~」と今更ながら気づきました。
さらにその星はどれだけ船が進んでも、まるで星自身が私の乗っている船についてきているように、
いつまでも同じようにそこに輝き続けていました。
そして私はハッと気づきました。
きっと被災されて悲しい思いをされている方の中には、
「こんな試練に遭わせるなんて、もう神様なんていないんじゃないか。」
そう思われている方もいるかもしれません。
でも、今は見えなくても確かに神様はそこにいるし、
例えどこへ行こうとも、神様は常に側にいて下さる方なのです。
そう思ったら何だか少し心が楽になりました。
もちろん被災された方にとったら今はまだそんなふうに考えられないかもしれないけど、
でも、いつか「あぁ、そうだったのか。」
そう気づける時がきますように。
・・・と祈り続けたいと思います。
神様宛の短冊に思いを込めて。