2011年04月30日

愛知と宮崎の野菜を南三陸町志津川の避難所へ


(4月29日、広報・鶴浦)
 愛知県と宮崎県の市民団体から届けられたキャベツやピーマン、里芋、サツマイモ、ニラなどをワンボックスワゴン車2台に満載して、沿岸部を中心に大きな被害が出ている宮城県南三陸町志津川の避難所(志津川高校、荒砥小学校)に届けた。

 当日はゴールウィーク初日の29日とあって交通渋滞が予想されたが、仙台市内からの移動は順調に進んだ。参加したのは、JIFHから3名のスタッフと、倉庫ボランティアとして当初から関わっていた佐藤悦子さんと娘のしおりさん(高2)。佐藤さんが、志津川高校の卒業生であることがわかり、道案内をかねて同行してもらうことにした。
 三陸自動車道の河北インターを下りて、大きな北上川沿いを車を走らせる。この川の上流には太平洋にのぞむ追波湾があり、そこにも大津波が押し寄せた。ほどなく走らせると川辺の両岸に瓦礫や小型漁船が点在しはじめ、さらに走らせるとやがて景色は津波で破壊された住宅地へと変貌する。追波湾と北上川の交わる美しい景勝地に建てられたモダンな造りであったと想像できる石巻市北上総合支所は庁舎の面影を残しつつ完全に破壊され、隣接していた吉浜小学校も校舎の3階まで津波が押し寄せた様子が伺える。
 ここからは太平洋を右側に見ながら沿岸部を走る。大小の入り江にある小さな村落にはほとんど例外なく津波が押し寄せ、点在していた住宅の瓦礫だけがむなしく広がる。「ここには家があったはずなのに、何もなくなっている」同行した佐藤さんもただただ同じ言葉を繰り返すしかなかった。
 そして車は、志津川湾をのぞむ町の中心部に入る。「やはりダメか」と思わず叫びたくなるような壊滅状態、戦時下の空爆でもこれほどまでに破壊尽くすことができないと思えるほど、津波の流れで押し流された平野が広がる。役場、4階建ての総合病院、学校、駅、大型店舗、町の中心的な施設がことごとく破壊されている。建物だけではない。死者500名以上、家に住めない避難者が人口の半分近くの7000人以上という現実も復興に重い足かせとなろうとしている。この町で被災した一人から話をきくことができた「この町は漁師の町だから海の怖さはよく知っているし、津波がくることも経験してました。でも今回は過去にも経験したことのない津波でどうにもできなかった。・・家族で小規模な漁や養殖をしている男達で奥さんや祖父母をなくした人は、浜での仕事(加工)ができなくなるので、漁を続けることはできません」どんなに町の機能や建物が再建されても、失われた人々はもどらない。
 この日野菜を届けた志津川高校は湾を見下ろす高台にあり被害がなかった。学校が再開され部活に励む学生たちの声が響く中、現在も数百名の被災者が避難生活を続けている。「たくさんのキャベツやピーマン、新鮮な野菜はありがたい。愛知と宮崎のみなさんにありがとうと伝えてください」と被災者の毎食をあずかる給食ボランティアが喜んでくれた。卒業生の佐藤さんには地震以来、お互いの安否がわからなかった級友との嬉しい再会もあった。生きている喜びから新しい力、新しい絆が生まれてくる。その励まし手となるために継続的な支援がここでも必要だ。
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