「まわりばかりを気にしていると
自分のことが見えなくなるよ」
私は高校時代、自分自身に対して価値を見出せなくなりまして。
その結果、あらゆることが面倒になり、いつしか「かっこいい死に方」について
いろいろと考えるようになりました。
様々な死のシチュエーションを考えたのですが、
最終的に辿り着いたのは「あしたのジョー」というマンガの
矢吹丈のラストシーンだったわけです。
何も残らない、白い灰になるまで闘って闘って燃え尽きるという死。
限界の限界を越えて、眠るように死ぬ姿に魅かれました。
ただボクシングなんて経験はありませんし、グローブやらリングやらをそろえるのは
あまりにお金がかかりそうだったので、リング上での死はすぐに断念。
最もお金がかからずに、手軽に身体を酷使し限界を迎える方法として、
当時、思いついたのは、「走る」ということでした。
そこで私は冬休みを利用して、それを実行にうつすことにしたわけです。
12月のとある寒い日の午後、もう二度と家には帰らないつもりで颯爽と走り出しました。
当時住んでいた三重県南部の紀勢町(現・大紀町)から出発し、
国道42号線沿いをひたすら北へ向けて走り続けます。
アップダウンの激しい山あり谷ありの道路。さすがに急な坂道は走れず歩くこともあり。
田舎とはいえ、近代的なアスファルト舗装された道路がひたすら続いていました。
辺りが夕闇につつまれる頃になると、
体力の限界というより身体そのものが悲鳴をあげだしました。
それはそれは、かつて感じたことのない筋肉痛の嵐。
痛すぎて走ることできず、歩きのみになります。
それでも一歩進む度に、かかとから脳天にかけて電気が走るような激しい痛み。
足の裏がアスファルトに触れているだけで堪え切れない鈍痛に襲われ、
重力というものにさえ悪意を感じました。
「痛みで泣いてしまうのは、中学時代の剥離骨折以来やな」
とつぶやく余裕もなく無言のまま、静かに泣いてしまい。
次第に車の数も減り、街も寝静まると、
全身の汗は冷えに冷え、鼻水タラタラで、
涙も氷ってしまうくらいの寒風にさらされまして。
腰から下を切り捨ててしまいたいくらいの痛みに苦しみながら、
寒さと疲労と激痛と孤独と虚無感の中で「限界」というものを痛いほど感じたわけです。
そんな時、ふと道路の脇を見ると、
土がむき出しになった未舗装の広い土地があったわけです。
特に何も考えずに、なんとなくそちらへ歩を進めました。
すると、
なんということでしょうか、
土の上に足がついた瞬間、
「なんという土の柔らかさ」
それまでの激痛が嘘のように、痛みが和らいだのです。
アスファルトの上に立った時と土の上に立った時とで、
痛みがここまで違うのかと私は驚嘆しました。
土の上では、全身の力が抜け、
まるで体が土の中に溶け込んでしまうのではないかというくらい気持ちよかったのです。
そして、この発見が嬉しかったのか、痛みからの解放が嬉しかったのか、
私は靴を脱いで裸足になり、土の上を何度も何度も足踏みしながら、号泣。
土のぬくもりが、かかとから脳天にかけて優しく伝わり。
空を見上げると、そこには満天の星空があり。
四方の山々は風に揺れた木々によってサワサワと心地よい音をたてていました。
『初めに、神が天と地を創造した』(創世記1:1)
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している』 (イザヤ書43:4)
その状況下で聖書のことばを思い出した時、
「神様は、この世界を創られたんだ」
と感じずにはおれませんでした。
まだまだ、私の知らない世界があるのだ、
もっともっと、この世界を知らなければ。
そんな決心を胸に、
明くる朝、私は松阪駅の始発に乗って、
電車で家に帰ったわけです。
半日かけて走った道のりは電車でわずか1時間ほどの道のりでしたが、
車窓からの景色はこれまでと全く違って見えました。
「君の歩く道は
石ころだらけで すてきじゃないか
あせらない あせらない
水たまりにうつった空が
あんなにきれいじゃないか」
(みちくさ/新沢としひこ)
今、苦しんでおられる方々が、
この世界を否定することがありませんように。
『私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。』
(聖書 ホセア6:3)