「邪魔なものは捨てることが正しいと信じていた
旅立つときは手ぶらがいいと思っていた
軽くなったら空も飛べると思っていた」
先日、渥美キリスト教会の加藤先生から大量のトウモロコシが大阪事務所に届きました。
先生には東北での活動でとてもお世話になりまして、農家の方々とのネットワークを通じて、
たくさんの新鮮野菜を支援物資として送ってくださり、東北の方々にとても喜ばれました。
私はいただいたトウモロコシをさっそく茹でて、しょうゆとみりんと料理酒でいい感じに味付けして、
焦げ目をいい感じにつけて、鮮度の塊のようなコーンをポリポリと美味しくいただきました。
トウモロコシのしょうゆ焼きを食べていると、
生まれて初めて食べた日の懐かしい情景が浮かび上がってきました。
私がまだ幼稚園にがっつり通っていた頃、夏祭りかなんかの夜店で、
父がトウモロコシのしょうゆ焼きを兄貴と私に一本ずつ買ってくれまして。
そのあまりのおいしさにコーンをすべて食べ終わった後でも、
つぶつぶ感ゼロのトウモロコシのシンを強く握り締め、
しょうゆの微かな残り香をもとめて、ひたすらがっついていたのを思い出します。
母に「もう食べるとこ無いから捨てなさい」と何度言われても、まったく手放そうとせず。
「お兄ちゃんが捨てるまで、僕は決して手放さないぞ」という無駄な競争心と果てしない冒険心を内に秘めつつ、
兄貴に負けじと味の向こう側を目指して一生懸命かじっていたわけです。
まるでペットボトルをかじる野良犬のように、それはそれは哀愁ただよう光景でした。
そんな懐かしい情景を思い出しながら、
食べ終わったばかりのトウモロコシのシンを
そっとごみ箱に捨てました。
その瞬間、自分はもう大人になったのだと痛感し、どこか寂しい気持ちになりました。
「寂しいとか 悲しいとか 苦しいとか
邪魔なものは捨てることが正しいと信じていた
旅立つときは手ぶらがいいと思っていた
軽くなったら空も飛べると思っていた
翼があれば飛べるとわかってきた
抱えた分だけ羽ばたけるとわかってきた
波の音とか 描いていた未来とか
涙の色とか サヨナラとありがとうとか
弱い僕とか もがいた時間とか
もれなく全部が 翼に変わる」
トウモロコシのシンは捨てたとしても、
トウモロコシのシンを愛おしく思えたあの情景は捨ててはいけないような気がします。
そこには家族の温かさや親の笑った顔、喜びや切なさや寂しさや楽しさがありました。
そして、もれなく全部が今の私を形成しています。
『物の考え方において子どもであってはなりません。
悪事においては幼子でありなさい。
しかし考え方においてはおとなになりなさい。』
(聖書 Ⅰコリント13:11)